ところざわまつり事典

(一)ところざわまつりの歴史

いにしえの所沢を偲ばせる山車祭 「ところざわまつり」

「ところざわまつり」は、山車が中心のお祭。
明治初期から山車の曳きまわしが行われ同後期には9月15日に催される神明社・秋の祭礼に各町内から山車が集るようになったと伝えられております。
その起源については、明確ではありませんが、所沢にのこる山車の購入や制作年代から類推すると、明治初期からと考えられます。

山車祭りに欠くことのできない祭囃子については、所沢には幕末から明治初期にかけていわゆる重松流を広めた古谷重松(ふるやじゅうまつ)が、所沢に住んでおりその成立とかかわっているとも伝えられています。
歴史ある山車とその上で繰り広げられる重松流祭囃子。 これは、いにしえの所沢を偲ばせるお祭といえるのではないでしょうか。

明治末期の山車祭り、これに参加する町内は下記の8町内であったと記録が残っておりました。

上町(元町本町・1番)/上仲町(元町東・2番)/下仲町(寿町・3番)/浦町(有楽町・4番)/ 下町(御幸町・5番)/河原宿(宮本町・6番)/金山町(7番)/日吉町(8番)8町内

山車祭りの催される時期については、山車を曳くには多額の費用がかかるために、山車祭は毎年行われたわけではなく、そして祭の際にも、すべて町内が参加したものではありませんでした。
山車を曳かない年には、各町内会が通りに面した場所に屋台を組み立て居囃子を行ったそうです。

各町内会全体を統括する組織は特になく、各町内では「ダンナシ」と呼ばれる町内会長に当たるような人たちが中心となって準備を進めたそうです。 町内に山車を持たないところは、近隣から山車を借りてきた記録も残っております。その記録のひとつとして、下町(御幸町・5番)では、砂川(東京都立川市)方面から借りることが多かったということです。

山車の組み立てや、それを収納する仮小屋づくりは、町内の鳶職によって行われたそうです。 仮小屋は通りに面した場所に設けられました。山車の上には守留-もりどめ-(人形)をつけることもありました。

昔のところざわまつり

祭礼の9月15日には、下記のような恒例のならわしがあったと言う事です。

  • 各戸ごとに祭礼の提灯をつるす。
  • 表通りの商店街などでは、2,3個の提灯を出す。
  • 町内には会所が設けられる。
  • 新しく引越してきた人たちは酒を持って挨拶。
  • 町内ごとに定まった場所に幟旗-のぼり-を立てる。

山車行列について。

  • 山車の指揮は、町内の「ダンナシ」によて拍子木で拍子がとられます。  
  • 交通整理は、消防団。
  • 山車のカジ、山車の屋根に乗るのは鳶職の仕事。
  • 山車の行列は、万灯(子供も含めて)─金棒引き─網棒引き─カジ取り─山車と続いた。
  • 金棒引きは娘や芸者が手古舞姿となり行列を作る。
  • 綱を引くのは町内の人たち。
  • 牛方を頼み、山車を牛に曳かせることもあった。

囃子を行うために近郷の囃子連を頼んで山車に乗って頂いたという記録が残っております。
各々の町内では、山車に乗り込む囃子連は、おおかた決まっていて、浦町(有楽町・4番)は和田囃子連、下仲町(寿町・3番)は牛沼囃子連、上仲町(元町東・2番)は西宿囃子連など。 町内で囃子の手の揃うところは町内で囃子を行ったそうです。

(二)重松流祭囃子(じゅうまりゅうまつりばやし)の歴史

山車を曳き回す時の音楽は日本独自のリズム

祭囃子は旋律に重きを置かない古い日本独自のリズム音楽。
二拍子と三拍子を交互に連続させるのリズムです。

天保元年(1831)年、所沢村上の宿に生まれた「古谷重松」(ふるやじゅうまつ)。父親は、古谷平兵工(ヒヨウエ)蒟蒻屋を商っておりました。 重松は、長じて兄と共に父の商いの手伝いをし、 実家の近くに住んでいたそうです。

ある時、味噌麹の製造と染料の藍玉を手広く商う家、 古谷源衛門の養子に迎えられました。 藍玉の原料である藍の葉。その集荷や、紫染めの触媒(しょくばい)に使う榊の灰の仕入れなどで、近況近在を歩き、一服のたびに好きな笛を取り出して吹いていたそうです。

この笛の音に惚れ込んだ若者たちが教えを乞うようになり「重松流祭囃子」が誕生したと伝えられています。 大国魂神社の流れを汲む笛の名人で、足で太鼓を叩き笛を吹くという神業の人が、祭囃子を教えに来るということで、近隣近在から多くの若者が教えを乞いに集まったそうです。

重松は、明治24年(1891)年2月3日61歳で没しました。 現在も東京・武蔵村山市、西多摩郡日の出町平井地区、同幸神地区、五日市市町伊奈新宿地区、清瀬市野塩など青梅街道や、五日市街道沿いに伝わっているそうです。

「重松流祭囃子」の特徴は決まった音符を持たず、すべて口伝。 「地囃子」として基本の太鼓はありますが、その雰囲気で、叩いているうちに相手の叩き方を見抜いて自分で工夫し、即興的に自由に変奏していく「チラシ」というジャズ的手法が受けています。

(三)祭囃子の楽器

和楽器演奏
  • 和楽器の笛、
  • 大太鼓(長胴)1個
  • 小太鼓(付太鼓=締め太鼓)2個。
    右側の小太鼓「からみ」左側の小太鼓を「地」と言う。
  • 鉦(かね)
  • 拍子木

小太鼓のことを「調べ(しらべ)」といい、鉦のことを「四助(よすけ)」、笛のことを「トンビ」と呼びます。

(四)祭囃子の楽器の呼び名

  • 四助は、大太鼓・小太鼓2個・笛の4つを助ける理由から。
    また、一説にはお囃子を演奏している時に「四助」という飴屋が鉦を鳴らして通りかかった。
    屋台に呼び上げて一緒に合奏させたところ調子が良かったので、それからお囃子の中に鉦を入れることにしたという説。
  • トンビは、笛から奏でる音がトンビの鳴き声からきている。

踊りには曲目に応じて、動きの早い「囃子獅子」「天狐」、静かな「にんば」「おかめ」「藤助」「げとう」「鎌倉囃子」「三番叟」などがある。

(五)お囃子の曲目

「重松流祭囃子」には演奏する曲に順序があり、それらは笛によって引き出されます。

(一)屋台囃子
(乗り物で神霊を送り迎えする調べ。踊りは獅子舞、白狐)
最も早い曲。単調だが乱拍子、きざみ、早違いと3つの変化部がある。 乱拍子ときざみは締め太鼓の腕の見せ所。早違いは短い楽句で美しい旋律。
(二)宮昇殿
(神霊が近づいたことを知らせる調べ)
屋台囃子とは対照的にスローテンポの曲で笛の旋律は歌うように演奏され子守り歌を思わせる。
(三)四方殿=国がため
(神霊が宮に入ることを知らせる調べ)
笛がリードし締め太鼓のイントロで地に入る。曲の速さは中位で、地が繰り返され屋台囃子に導入される。
(四)かまくら
(安泰を祝い、余興楽として行う調べ。踊りは獅子舞)
唐楽と呼ばれ序奏部は比較的長い。速さは中位で変化部はない。
(五)師調目
(以上の行事が終わり、神官が浮かれながら帰る調べ。踊りは、下男=げとう)
特徴のある曲で変化部は大太鼓のリードで始まる。この変化部を大間といい、大太鼓が長い大間を打ち終わると、締め太鼓Aが短い大間を打つ。この間、締め太鼓Bは地を打ち続ける。
2つ締め太鼓はお互いに異なった奏しながらも調和するという難しさがある。
(六)三番叟
(前方で三番叟が鶴の舞を演じ、後部に5人囃子がならぶ)
(七)にんば
(1切が終わり、下男、はしため、ひょっとこ、どうけおどり、おかめ、ねんねこ、ひとつとや、かまくら、という曲でお化粧直しを演ずる)

このほか、ねんねこ、地ばやし、しみず、中の切りなどがある。

※「重松流祭囃子」は「屋台囃子」と「宮昇殿」「四方殿」、 「屋台囃子」と「かまくら」「師調目」など、2つの曲が組み合わされて演奏される。
それぞれの「屋台囃子」と「屋台囃子」の間にほかの曲が順不同に挿入して演奏され、素朴だが平面的ではない。 また、威勢の良い掛け声「どっこいしょうの」「こら」「こらさ」「こりゃ」「こりゃさ」が使われるのも「重松流」の特色。

(六)所沢音頭

民謡流しでも使われている所沢音頭。ところざわまつりを後援する商工会議所制定の曲です。

西条八十・山畑一雄 合作詩、古賀政男 作曲、唄:久保幸江・加藤雅夫、コロムビア ・オーケストラ、三味線:豊吉・佐藤けい子、コロムビアレコード(PRE-1604)

所沢音頭レコード

所沢音頭レコードA面

所沢音頭レコードB面

歌詞

1、ハァー 恋し狭山湖つゝじの小みち
幼馴染が手をとって
聞いたあの日の茶摘唄
トコヨイトコ ドコダヨ 所沢

2、ハァー あなた織糸わたしは織娘(おりこ)
切るもつなぐも胸一つ
ならばまとめて綾織に
トコヨイトコ ドコダヨ 所沢

3、ハァー 秋はうれしや商工祭
笛や太鼓に送られて
今日も出てゆく輸出品
トコヨイトコ ドコダヨ 所沢

4、ハァー 君を待つ夜の狭山の新茶
立つは浮名か茶柱か
首尾もよいよい所沢
トコヨイトコ ドコダヨ 所沢

5、ハァー 僕の心は種無し西瓜
割って見せたい胸の中
在るのはあなたの顔ばかり
トコヨイトコ ドコダヨ 所沢

6、ハァー 踊や輪になれ二重に三重に
狭山多摩湖をまん中に
花の東京続くまで
トコヨイトコ ドコダヨ 所沢

(六)「所沢音頭」制定の経緯

昭和25年に所沢市制施行を記念して所沢商工会議所が所沢音頭を一般公募して選ばれたのが「所沢音頭」です。
盆踊りや運動会などでも耳なじみなこの曲。作詩は山畑一雄(一翠)(当時26歳)で、西条八十が補作、古賀政男が作曲。強力メンバーによる作品で久保幸江と加藤雅夫の唄でレコードが製作されました。

西条八十 1892~1970(明治25年~昭和45年)

詩人、童謡から流行歌まで、大正・昭和に愛唱された詩を数多く創作。
大正・昭和期の詩人・仏文学者。東京都出身。早大卒。

在学中三木露風の「未来」に参加、1912年(大正元)日夏耿之介(こうのすけ)らと 高踏的詩誌「聖盃」(のち「仮面」)創刊。また「赤い鳥」に「金糸鳥(かなりや)」「肩たたき」など多くの童謡を発表 、北原白秋と並び注目を集めた。
19年詩集「砂金」では繊細な叙情詩人として好評を得た。24年、ソルボンヌ大学に留学、2年後に帰国し早大仏文科教授となる。
また、歌謡曲の作詞家として活躍。「お富さん」「愛染桂」「青い山脈」など、手掛けた流行歌は数えきれない。「東京音頭」も作詩している。

古賀政男 1904~1978(明治37年~昭和53年)

福岡県田口村(現在の大川市)出身。明治大学在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担う。
在学中に音楽家を目指し『影を慕いて』を発表、卒業後レコード会社の専属の作曲家として、数々の作品を発表しヒット曲を生み出す。これらは『古賀メロディー』と呼ばれ今もなお愛唱されつづけている。

作曲活動のかたわら、音楽親善大使として世界各地をまわる。昭和53年に永眠。没後国民栄誉賞を受賞、生前も多大 なる音楽文化活動の功績に対し数々の賞を受賞している。

西条八十作詩 古賀政男作曲では、

  • 誰か故郷を想はざる 昭和15年
  • 夜霧の馬車 昭和16年
  • 戀の曼珠沙華 昭和23年
  • 雨の夜汽車 昭和23年
  • トンコ節 昭和24年

等があります。

所沢音頭 歌碑

平成8年に関係者の手で、歌碑が所沢市内喜多町に建立されました。 所沢音頭は今でも多くの人たちに愛されているといえるのではないでしょうか。

出典

  • 「無形文化財 重松流祭囃子沿革史」「所沢市史」
  • 「ショッパー 2001.10. 4(木)号」 「ショッパー 2001.10.10(木)号」
  • 「GINZA WALKER 2000号外」発効日:2000.10.07 発行所:所沢銀座協同組合